#204 どうしてこうなったん?島国ニッポンの歴史と教育の変遷

【今回の内容】
日本の教育はどうだった?/システム化しなかった日本/読み書き算盤のスキル/最高難易度の試験を突破した人物とは/人気を集める漢文学の教養/エモい!ひらがなの発明/武士が学ぶマナー講座?/お寺に集まる知識/占いも勉強のうち/庶民も学ぶ江戸時代/文治主義で国を治める徳川家/今でも残る藩校の伝統/広がる寺子屋での学び/6年間の義務教育のルーツとは/キリシタン学校のカリキュラム/私塾で培われる吉田松陰たちの思想

樋口:はい、ええ、前回までは中国の教育の歴史のお話をお聞きしたんですけど、ちなみに僕らはサポータ特典で科挙についてお話をして今終わったところなんですけど。今回からまた本編に戻りまして日本の教育の歴史ですね。これは自分が住んでるんで、興味ありますね。

楊:日本の歴史をさっと紹介していく。さっと終わるかな。

樋口:日本の歴史ね。

楊:日本の教育の歴史。

深井:教育の歴史行こう。

楊:はい。ポイントでいうとさっき中国の教育の歴史の特徴でいったのは徹底的なシステム化。日本は逆なんです。あんまりシステム化は発達しなかった。いうのが特徴です。

樋口:ぽいですね。ぽいぽい。

楊:一応公的な教育組織もある程度頑張ってはいたんだけれども基本的に一門の中とか家庭の中での教育とか私学ですよね、私学を中心に展開されたのが日本の教育の主な特徴です。中国の場合って儒教がベースだった。日本も最初の方は中国からシステムを輸入したときに律令国家を作ろうってなった時に儒教を中心に一回据えるんですけど、そのあと儒教がそんなに中心にはなっていかなかったんです。やっぱり中国とは離れてるし日本に元々神道とか仏教とか色々入ってきたので儒教の文化を選択するか選択しないかみたいな自由を持ってたんです。だから色々あるというのが日本の教育の特徴です。古代の日本、古代の教育制度について紹介すると、日本最古の公立学校があります。それが大学寮という名前です。これも完全に中国の唐の時代のシステムを参考にしてるんですけど。天智天皇によって671年ころに創設したと言われてます。初代の長官が校長先生ですね、百済人なんです。

樋口:持ってきた。

楊:百済系ですね。ちなみに大学寮、官僚の育成学校なんですけど、初期の頃の学校の長官にしても学生にしてもですね、百済系とか中国系の渡来人がほとんどなんです。

樋口:あらら、へえ。

楊:つまりどういうことかというと、日本の最初の公教育の最初は中国の渡来人がスタートアップになって移植を最初にしたということなです。

樋口:輸入だ。

楊:天皇の中央集権体制を作るために多量の官僚を育成する必要があったわけなんで、そういった仕組みを作った。前も深井くんが違う回でいったように遠隔地を統治する必要があったので、文書行政するニーズが生まれてきた。文字を扱かったりとか文書を作ったりする事務処理能力が官僚として必要となったのでそういったスキルをもった官僚を育成しないといけないニーズが出てきたというのはヨーロッパと同じです。ヨーロッパというかシュメールとかにもそういったのがありました。

樋口:ありましたね、シュメール。

楊:勉強した内容ですよね、儒学、法律、漢詩文、書道、算術、あとこれは日本だけなんですけど中国語の発音。

樋口:へえ。

楊:それも勉強してました。

深井:外国語だよね。

楊:そう。律令制では朝廷の財政の基礎になってる田んぼなんです、田んぼをどれくらいあって、そこからどうやって税を取っていくかが非常に大事にされてたので、儒教だけじゃなくて算術も重視されるようになったんです。

樋口:ここでも読み書きそろばん、毎回出てくる。

楊:ただ、この大学寮というのは親が一定以上の貴族というのは大学寮に入らなくても位が与えられたので、全ての貴族にとってすごいモチベーションになった仕組みかというとそうじゃないです。すごい親が位が高かった貴族は大学寮に入らなくても位がもらえたんです。だから別に大学寮に入らなくていいんじゃない。全然おれ、親偉いから出世できるから、いうのがありました。あとこれに入れるものも限られてて、ちゃんと文筆とか記録作成に関わってた氏族です。基本的にスキルは特定の氏族に紐つけられてるので、そういったものの人しか入れなかったという特徴があります。あと、一応唐の時代から官吏登用試験の輸入はしてます。だからこの大学寮を中心とする教育システムの中にも卒業試験とか任官試験も一応あったんです。ちなみに、そのあとの時代の平安時代になって、この試験の中で対策という超難関試験があるんです。超難関試験に合格した有名人が菅原道真です。

樋口:あらら、太宰府の。

楊:太宰府の。200年の間に65人しか合格者がでていない。その一人が菅原道真。26歳で合格してます。本当神様なんです、学問の。

樋口:学問の神様。へえ。

楊:さらに地方では国学、国の學といって、地方の教育機関も整えられたと言われてます。これとはまた別系統で仏教ですよね。仏教そもそも日本の教育システムの中で仏教はすごく重要な立ち位置を占めてて。法隆寺とか、法隆寺とは法隆学問寺という名前だったんで、そこ実は学術とか研究する機関だった。空海が作った学校もあります。前の回、以前の回でも話した。中国との違いですよね、もう少し詳しくいうと中国は儒教が中心だったんだけど、日本の方は最初のほうは儒教中心だったんだけど、のちのち漢文学が重視されるようになるんです。儒教は別に国家統治の中心に据えなくてもよかった。ただ単に漢字を扱うスキルが欲しかった。だから儒教の理念よりもその教養としての漢文の知識とか漢文学の教養とかがより重視されるようになったわけです。もうがちがち儒教やるよりもアーティスティックな方に振っていった。じゃあ実際にそうで、さっき中国とか百済からこの教育システムを輸入した。輸入してしばらく運用してたんだけどそのうち日本がカスタマイズし始めるんです。これに。この中に文学科目というのを設定するようになるんです。これがまさに漢文学の教養試されるコースなんです、試験なんです。これが実はめちゃくちゃ人気になるんです。

樋口:へえ、人気になるってのが面白いですね。

楊:詩を読めるかどうかが官僚の基準になるんです。宮廷詩人を育成するっていうことが重視されるようになるし、飲み会の時に漢詩も読めないと出世に響いたりするのですごく人気になっていくんです、これが。芸術の方に振っていく。もう一つ面白いのが、前の回でも出てきた、以前の回、ひらがなの発明です。漢字って元々神と王様の交信の記録とか占いで使う神聖な文字だったんです。それを躊躇もせずに崩して使う日本のメンタリティ。これ個人的にすごいエモいなと思います。

樋口:エモいって表現。

楊:めっちゃ神聖な文字なのに、ちょっと崩して使ってみよう、それが日本の面白いところ。

樋口:日本人すぐ略しますからね、キムタクとか。やばいで全部言い表したりとかね。

楊:この平仮名も最初は女文字とか蔑まれてたんですけど、これが公文書に使われるようになるんです。これが後々源氏物語とかそういった文学を生み出していく土壌になっていくわけです。その大学寮ができます、国の教育として。ここで状況が変わっていくんです。貴族とか寺とかが力とか土地を持つようになってから大学寮のポジションが下がっていく、相対的に。例えば藤原氏とかがいる。藤原氏とかが勝手に教育機関を作り出す。自分の一族が通えて、その一族で育てた人材を朝廷に送り込むシステムを自分たちでぽんぽん作っていくんです。そういった状況が生まれてきます。それまで国の富ってのは天皇がコントロールしていたので教育リソースも天皇が握っていたんですけど、次第に周りの貴族とかが富とか持つようになって自分たちで教育リソースを囲い始めたというのが状況として出てきます。

樋口:この辺が中国と違う感じがする。統制が若干取れてない感じが。勝手にやりだしてる。

楊:そうです。だから律令制が衰退した10世紀後半ですよね、10世紀衰退していって大学寮とかさっきいってた国学とか学校としての機能が失なっていって、世襲になっていく。世襲制が特徴になっていくというのがあります。次に話すポイントとしては武士です。武士、前も織田信長の回でやりました。武士って前の回でもやったようにヤンキーじゃないですか。ヤンキーが日本の中で台頭してきて、彼らの中にどういう行動が起きたかというとヤンキーが勉強を始めるんです。

樋口:あら。なんか、いい学校だ。授業聴き始める。

楊:でも家臣団を統率したりとか、自分たちの正当性を説明するために武力だけではだめだった。それで彼らが利用したのが京都の貴族なんです。京都の貴族を自分たちの権利体制の中で登用したりとか師匠に招いたりして、歌とか教養とか勉強し始めたってのが特徴です。あと、武士の中で教養を持つ人も出てきたりとか、いろんな本を収集して文庫を形成して。本の貸し借りとか武士の中でする人が出てくるようになる。

樋口:なるほど。これ、ありましたね、ヨーロッパでも。リーダーが知性が必要になってきた話ってありましたね。

楊:そうですそうです。あとは武士の中で大事にされてた弓馬の道ってありますよね。弓と馬です。あと礼儀とかもすごくある種フォーマットができる流れ、動きが出てくる。みなさん聞いた事はあると思うけど、小笠原流礼法とか今でもある。それは元々武士に弓とか馬とか、礼儀とかを教える指南役を司った小笠原家が作ったものなんです。小笠原家伊勢家今川家って三つの家が有名です。この三つの家が話し合って一つの礼法、礼儀のルールマニュアルみたいなのを作った。武士が読むべきものとして。内容が面白くて、暑いからと言って人の前で扇子を使うな、汗を拭うな。

深井:今と一緒。

楊:鼻をかむな。

樋口:それ系。マナー講座。

楊:相手の食べるスピードや相手の気持ちに合わせて食事を進めなさい。箸の持ち方とか。

深井:先生に言われそうなやつ、小学校で。

楊:そうそう。あとは、爪楊枝を使う時は口を隠せ、とか。

樋口:細かい。

楊:酒の席で踊ってっていわれたら踊れ、みたいな。逆に言えばできてなかったってこと。すごいヤンキーだった。

樋口:本当マナー講座レベル。

楊:そう言った動きも出てくるというのがあります。武士って前、以前の回でも話したけど開発領主なんです。自分で農業経営をしないといけなかったので自分の領地を確保したり納税の計算をする必要があったし、鎌倉とか京都と絶えず連絡を取ったり、そういう必要がった。だから武士も自分たちでちゃんと手紙の読み書きをしたりとか、土地とか褒賞を出す計算をするシーン出てくる。そう言った中で彼らの読み書き計算のニーズが出てくる。あとは裁判です。裁判を巧みに行うことは政権が安定するためにとても重要だったので、これも文字とかが必要なこととして、ニーズとして出てきて武士たちが勉強し始めた。こういう武士のあいだで起こった学習需要に応えたのが各地の寺だった。基本的に日本の教育システムの中核を担ってるのは寺なんです。

樋口:この話。

楊:そう、一番の文化的な資源が集まってたので。漢字も坊さんとかは読めるし本も集めてるし。

深井:中世ヨーロッパでもそう。キリスト教会が教育をする唯一の学校になってた。これも誰がお金を払うかで説明できると思います。知的教養を身につける投資ができたのが宗教団体のみだったって話です。

楊:モチベーションがった。

深井:モチベーションもあるし余裕があるということです、宗教団体が唯一。生産活動に携わらずに生きていける余裕を持っている。その人たちが教養を極めていって社会のエリートとしているんだけども。そこを中産階級ではないですけど、彼らは武士は。武士のような人たちに教えるという役目を担っていくのはどの社会でも起こってる。

楊:そうだよね。だから武士が自分たちで教育活動をしたかったら貴族だったりとかお寺だったりとかの連携が必要だった。その流れの中で出てきたのが足利学校という、足利一門の氏寺がベースになって発展した最大規模の私立教育機関です。それがちょうど今の栃木県足利市にあった。最盛期には全国から3000人の生徒を集めた。

樋口:3000人、デカそう。

楊:でも、起源は不明。のちになって守護大名の上杉憲実という人が再興したという記録が残ってて。そこで儒学とか占い易学、医学とか兵学、天文学、いろんなものを学べた総合教育施設だった。とくに有名なのが易学、占いです。占いってなんで重要なのか、これ軍師なんです。軍師が必ず身につけないといけない知識なんです。当時の戦いでも占いってのは非常に大事で。例えば船に乗り込む時に方角とか体の動きとか、占いのロジックに基づいてやったりする細かい決まりごととか験担ぎがあったので非常に重要視されてた。この学校から軍師がどんどん排出されていろんな大名とかに抱えられたりとかいう流れになってきます。なんでこれ運営されてたかは目的がわかってなくて。おそらく元々起源がお寺から出てきたものなんで、この学校というのは。仏教的な功徳を積む機関として上杉たちが運営してたんじゃないかなと言われてます。ある意味社会貢献活動。わからない、実際は。

樋口:すごいな、それで、それだったとしてもそれで3000人か。

楊:けっこう多いです。

樋口:すごい社会貢献ですね、それが本当だったら。なるほど。

楊:はい。あとは庶民の教育もあります。庶民も幕府とかは別に庶民にたいして勉強しなさいよと奨励することはなかったです。ただ村を自主運営したり商工業の発達で取引する場面が出てきたことによって読み書き計算のニーズが民間の中でも高まっていくんです。その証拠として中世の日本の民衆による書簡とか村の文書とかも結構残ってる。でも別に組織的な教育はなされていない。必要に応じて色々やってるという感じです。江戸時代です。江戸時代は社会構造的に組織的な教育が必要だった時代。統治というものが中央集権という体制のもとで統治することになったので、教育が公教育のポジションが上がった時代です。これもさっきの繰り返しになるんですけど、江戸時代というのは兵農分離。農民と武士ってのを離れたところに住むようになった。中世とかは農民と武士が同じ空間内で近くに住んでたので武士の農民が、言えば統治できる、武士が。でも武士と農民が離れて住むことになったのでより文書行政の需要が高まった。

樋口:住む場所が違ったってこと。

楊:そう、武士は城下町に住まないといけない。なんで支配する側の武士の御触書とか法令を読めないと統治ができなかったんです。武士側も書けないといけなかったし農民側が読めないとわからないので彼らも勉強する必要があったってことです。もっと面白いのがあって、上から下だけじゃなくて、下から上の、例えば陳情とか訴訟も全部文書の形じゃないといけなかったので、より農民たち、農民の中でも特に村の中の役人たち、村役人がちゃんとそういった文書を扱うスキルを持ってないといけなかったんです。例えば一揆あるじゃないですか。一揆って農民にとって政治行動なんです。それを起こす時に訴状とかを書かないといけない。識字率がその村の政治力をすごく関係してたんです。

樋口:そうかそうか。訴状を描く人の人数が。

楊:そう書く人のロジックというかどれだけ教養があるか。じゃないと武士とか支配階級に村の権力を守れないという需要もあったみたいです。

樋口:なるほどですね。最低限のビジネススキルだった、生きていく上の。メールくらい使えないとだめよみたいな感じで社会的な底上げが必要だったわけですね。

楊:江戸時代は社会として安定しているのでビジネスもすごく拡大していく。それまで自給自足でもやっていけたんですけど、生活の衣食住の商品が外から買わないといけなくなってくる。商品経済が進んでいくのでそこの中で金を扱うという場面が出てくる。それも勉強するための一つの動機になります。帳簿、ビジネスしたりとか帳簿の整理とか契約書の作成とか年貢の計算とか。都市でも農村でも普通の民衆が文字を学習する必要が出てくるようになった。あとは社会の一つの変化として出版文化が広がっていった。昔木版による印刷の出版物もあったんですけど、基本的に仏教の仏典を刷ったりとか、そういったところで使われてたりとか。あとは知識人とか武士とか特権階級の需要のみを満たすものだったんですけど、江戸時代になってから出版業者が増えた。出版業者が増えて出版するコストが下がっていったわけですから。たとえば古典の中国の古典だったりとか、日本の枕草子とか万葉集とかをばんばん刷って市場流通したりとか。特に知識人たちが自分たちの著作を発行できるようになった。そういった社会背景もあってどんどん識字率が上がったり、教育の勉強していく需要が上がっていく状況になっていく。

樋口:江戸時代になってからの文字の教育も相変わらず寺がやってたんですか。

楊:それは後で出てきます。

樋口:たのしみ、なるほど。

楊:江戸時代になって公教育の話をすると、徳川家の天下じゃないですか。徳川家は儒教を奨励するんです、儒教を。なぜ儒教を奨励するかって天下を治めやすくする。中国も同じようなロジックでやってました。江戸時代になった当初って思い出してほしい。武士って裏切ってなんぼのメンタリティ。

樋口:本能寺の普通ですね。

楊:本能寺の普通です。だからそれを大名の家来として従順に働く武士のメンタリティに向けて改造していく必要があったんです。実は江戸の初期ってすごく社会不安があって、各大名がいうことを聞かない場合に武力を背景に藩と潰したり領地を取り上げたりしてたんです。それでめちゃくちゃ浪人の数が増えた。巷に浪人があふれまくって、それで盗賊をやったりとか治安が悪くなってたという社会背景があったんです。その中で慶安の変ていうテロ事件、テロ未遂事件が起きる。これが浪人たちによる幕府転覆の未遂事件なんです。火薬庫を爆破させて各所に火を放って江戸城を焼き討ちにするという相当やばい計画なんです。将軍を人質にとって政治の実権を奪い取ろうぜ、徳川家に潰されて恨みを持ってる浪人たちが計画するんです。

樋口:やばいじゃないですか。

楊:未然に抑えられてるんですけど、これによって江戸幕府が統治スタイルを変えないといけないねと考えるようになるんです。今までは武力で押さえつけてた、でも爆発してしまう。だったらもう武力でなくて教養で国を治める文治主義に転換していかないといけないよね。

樋口:これもヨーロッパであったやつだ。

楊:そうそう、考えるようになる。教養で国を統治した成功事例がすぐ隣にあるじゃないか。それが中国です。なので、中国の儒教のフォーマットを江戸幕府がこれを国家統治に導入するわけです。これが本格的に導入したのが5代将軍綱吉の時です。このあたりでできたのが武士の最高学府、前も出てきたけど昌平坂学問所。武士教育の中央学府として位置付けられていくということです。そして、江戸時代の教育の特徴としては海外の学問の導入です。徳川吉宗という将軍の時に海外の学問をどんどん輸入するようにできる。解禁していくんです、彼が。オランダ語とか外国の教育を進めたり。あとは医学とか博物学とか天文学とかいろんな学問がどんどん入ってくる。

樋口:これは禁止されてたってことですね、もともと、外からの学問の輸入。

楊:禁止されてても緩かったみたいですけど。実際は。

樋口:完全に法律として禁令を緩和した、無くしたってことですね。

楊:そうです。

樋口:なるほど。

楊:教育システムです。江戸幕府による教育システム。有名なのが藩校です。それぞれの藩で自前で学校を抱えて運営するようになる。この藩校、福岡で有名な修猷館とかありますね。山口の明倫館とか、今でも残ってるものもありますけど。

樋口:それ元々藩校なんですか。

楊:そうです。

樋口:へえ。

楊:元々この藩校ってのは藩士に対する学問を奨励する場だったんです。教養を身につけたほうがいいよ。でも途中から人材育成という明確な政治目的を持つようになります。それが寛政の後くらいだったかな。背景としては財政難だったりとか飢饉とか撃ち壊しとかが起きてきて。政治改革に対応できる人材を育てていく必要がある。それをきっかけに人材育成に力を入れないといけないよねってことで藩校をどんどん立てていく。あとの時代になってほとんどの藩が江戸末期になると藩校を持つようになるし。だいたい藩校も300くらいあったと記録で残ってます。

樋口:これは藩が必要と思ったから作った。藩立ですね。藩立学校。

楊:そうです。もう一つ藩校の重要な目的というのがあるんです。それが情報収集のネットワークの形成なんです。当時インターネットが無い時代なんで人が最も重要な情報源なんです。藩校って、いろんな藩を渡り歩いてる先生を招いて教えてもらったりとか。逆に藩校の学生を江戸とか他の藩に留学に出すことができたんです。それによって、自分の所の藩校に情報が集まる。いろんな他の藩でも江戸幕府の中でネットワークができる。ここから上がってくる情報を藩の政治の中に吸収してそれを政治決定に生かすというのが藩校のもう一つの機能なんです。

樋口:なるほど、これもヨーロッパの大学の一部でありました。

楊:シンクタンクぽいこともやってた。

樋口:話ありました。

楊:後は江戸時代のもう一つの特徴としては寺小屋の普及があります。みなさんよくご存知の。本当は手習い塾というらしい。これは自然発生した元々教育の場で起源は中世のお寺だったんですけど、普及し始めたのが江戸時代なんです。さっきもずっといってきたように身分にかかわらず文字を使ったコミュニケーションとか仕事の生活の必要性が高まったので増えていった。あとは途中から江戸幕府も民衆の教育にコミットしてくるんです。だから江戸幕府が作ったテキストを町の寺小屋に配布したりとか、そういうこともするようになりました。

樋口:ということは幕府も教育に力入れてたし、寺子屋を協力してたってことですね。

楊:そうです。民衆教育に力を入れる理由としては教養を高めさせるというよりは儒教の枠組みの中でちゃんと民衆は民衆らしくしなさいっていう政治、統治目的があったと思います。これによく寺子屋によって日本の江戸時代が世界最高レベルの識字率を達成したと言われるんです。

樋口:そうなんですか。すご、日本。

楊:ただ、最近の研究ではそうでもなかった。農村と都市ではかなり識字率の差があったみたいです。やっぱ都市とかだと商人とか工業に携わってる人が文字とか計算しなくてはいけないという社会的なスキルのニーズがあったので識字率が高かったみたいですけど。農村とかにいくとそうでもなかったみたいです。

深井:江戸の識字率は高いんでしょうね。

樋口:江戸という都市のね。

楊:そうそうそう。実際に明治時代になってから軍が訓練計画とか訓練のマニュアルを作るために新兵の学力調査をやった。ただあまりにも文字の読めない人が多すぎて、軍が文部省に働きかけて義務教育を4年から6年に延ばさせたんです。それが今の6年間。

樋口:おお。そんなところに起源がある。

楊:実は軍からの要望なんです。マニュアル読めない人が多すぎて。

樋口:なるほど。軍からするとそっちの方がメリットがあった。文字を読んでもらった方がメリットがあるからそこに力を入れさせたってことですね。

楊:そうですね。もう一つ面白いのが、キリシタン学校です。キリスト教が入ってきたので布教活動の一環としてイエズス会が学校建設をしてるんです。けっこう多くて200箇所以上あったと言われてるんですけど、それでも宣教師とか司祭の数が足りて無い。特に日本人の司祭が足りて無い、育成したいということで高等教育の機関を設置します。セミナリオ、ノビチアート、コリジヨっていう名前の高等教育機関を大分とか安土とか作っていく。内容がカリキュラムとかが残ってて、キリスト教、ラテン語、音楽ですよね、フルートとかオルガンとかやったりする。あと、水泳とかもやったりしてる。弁当持ってピクニックに出かけたり、クリスマスには文化祭やったりとかしてた。楽しそうじゃ無いですか。

樋口:幼稚園みたい。

楊:特徴的なのはこのカリキュラムの中に日本語とか日本文学を組み入れたんです。布教していくに当たってそもそも日本語能力は必要ですし、特に身分の高い貴族とか大名とかに布教していくじゃないですか。教養も自分の国の教養もないといけないということで、日本語とか平家物語とかの日本文学を学ばせたという特徴があります。もう一つ江戸時代として教育の仕組みとして有名なのは私塾です。手習い塾、寺子屋は読み書き計算を中心にする主に庶民たちが通ってた教育組織ですけど、もっと一個レベルの高いものを教える、例えば儒学とか、国学とか洋学とか、そういったものを教える教育組織として機能したのが私塾です。私塾は本当にいろんなものを教えてました。オランダの由来の学問の蘭学とか兵学とか医学とか色々ありました。天文学とかも音楽とかも教えてる学校もかなり増えていった。有名だと例えば日田の咸宜園です。広瀬淡窓という人が作った私塾が有名です。本居宣長の鈴谷とか、これ国学者です。蘭学は緒方洪庵が大阪で開いた適塾、これは福沢諭吉とか大村益次郎とか手塚治虫の曽祖父とかが通ってた塾です。そして俺たちの松陰先生、松下村塾。て私塾がいろんな多様なものを教える私塾ができていきます。こういういろんなものを教えていく中で幕末になっていって、社会の変動が激しくなっていく。その中で幕末の時代に向けて思想運動の源泉に置いた私塾がなっていくわけです。私塾がなっていく、その中で高杉とか久坂玄瑞とかが出てきたりとかして。最後に武士たちが自分たちを代表する政権であるはずの武士による幕府を自分たちで倒して明治維新になっていくという流れになっていきます。

樋口:いいですね。これ、だから日本で哲学みたいな柔らかい部分みたいなものを研究、教えてたというのが私塾になる。そこが私塾が担ってた。

楊:私塾だけじゃ無い。幕府の中でもそうとうすごい儒学者とかがいるので。そういう哲学的なものもちゃんと研究はしてたし教えもしてた。ただ中国と比べると特徴的なのがすざましいシステム化がない。

樋口:そうですね。それぞれがぽつぽつとやってる感じですね。

楊:実際江戸幕府の途中から寛政異学の禁っていって、朱子学しかやっちゃだめだよ。儒教の中の一つの流派の朱子学しかやっちゃだめだよ。でも実際私塾の中では自分たちでいろいろ好きなものを教えてた、そういったものもあります。

樋口:キリシタン学校も普通にあったりして。

楊:もうね、松下村塾でも陽明学。

深井:朱子学と反対のやつ。反対ではないですけど。

樋口:まあま、対になる。違う考えのやつ。

深井:中国と大きな違いは私学でしょう。私塾の存在です。

樋口:そうですね。

深井:これが結局幕府を倒しちゃうわけだから、松下村塾とかが。結局国家権力が弱かったって話です。

樋口:ということですよね。

楊:あれだよね、システムが弱いからこそ色々変化できた。

深井:そういうこと。統一権力が弱いからこその多様性とか多元性とか、変化に対する強みもあるし、統一力が弱いからこその最大マックス値に到達するまでのスピードの遅さであるとかはある。本当一長一短だよね。中国のほうが多分GDP高かったろうし人数も多いしね。ていうのはあると思う。一方で日本の方が近代化は早かった。ここらへんはすごい面白い。

楊:日本はヨーロッパと似ている。超すごい中央権力ってのがたくさんはなかった。

深井:三者三様って感じでしょう。これ以外の地域でももちろん教育は行われてる。欧米と日本と中国だけではない。当然このあと言うと思うけどイスラームの教育とかもあります。

樋口:違いそうだな。

深井:それぞれ違うんですけどね。それぞれの特徴を持ってます。中国はすごい統一権力による国家教育。ヨーロッパとかは大学とそれ以降。この後話ますけど啓蒙思想という新しい人間とは何かということを考え直しますので。彼らは、そこで大転換がくるという話です。日本は比較的ずっとゆるい状態で好奇心は高い人たちなんだろうなと思います。

樋口:気になったのが、誰がやってるかで言うと、国も進めてるし民間もやってるし私学みたいなわけわからない。吉田松陰とかなんでやってるかって教えたいからやってるという感じでしょ。だから教育のモチベーションがそれぞれ色々あるんですかね、日本て。それが同居していて。

深井:江戸時代において多様化したと言えると思います。江戸時代において安定的な社会が到来した結果、その安定させた江戸幕府を殺す人たちが出てきてしまう。非常に面白いですね。楊:それを江戸幕府は統制最後は結局できなかった。

深井:できない。

楊:そういうシステムがない。

深井:システムがないし、私塾とかは特にそう、営利目的でさえないですからね、もはや。

樋口:そうそう、松陰とかそうだった。

深井:金稼ごうと思って学校作ってるわけじゃないから。

楊:科挙に受からせようと思ってやってるわけじゃない。

深井:官僚を作ろうとかも思ってない。すごい本当に純粋に学んだろうと思う人が私塾にいるし。

楊:日本の教育ってアーティスティックなんです。

深井:ちゃんと勉強してるって感じですね。

樋口:なるほどですね。

深井:勉強のための勉強をしてる、彼ら。

樋口:一方で武士と農民のコミュニケーションとるために文学を教えてそれを国が補助してってのも若干はあるにはある。

楊:ありますね。

樋口:色々なモチベーションでいるなという印象でした。

深井:面白いなと思うのは各社会が何を教えるかをどのように選んでるかということをここで見た方がいいと思っていて。教育の歴史の途中なんで、今それを確定させる必要はないと思ってる。なぜ日本ではこういうことを教える、中国では教える、ヨーロッパではこういうことを教えるのかっていう内容を誰がどのタイミングでどう選定していったかってとこにすごい社会の特徴が表れている。ということは今もそうだということです。今なぜこの教科が選ばれてこうなってるか、どういう特徴とそしてこれからの時代何を選ぶかはどういうふうに選んでいくかはこういうことから僕は学べる。

楊:時代で違う。

深井:時代で違うし社会で違うし、社会で違うんです、時代で違うというよりは。その時の社会の形態によってその時に何を学ぶかを選んでるわけです。それはそうだよね。

樋口:そりゃそうだわ。だって同じ儒教学ぶのも目的違ったりするか、日本と中国。

楊:中国は出世のためですから。

樋口:全然違う。

深井:やっぱり変わっていってる、社会が変遷すると。だからやっぱり今もかわらないといけないと思います。社会が変遷してますもん。明らかに変遷してるもん、社会は。

樋口:ですね。

楊:そうですよね。変わっていった先にどういう教育のフォーマットをやっていくかはわからい。

深井:わからないけど、変わろうが変わるまいが、どうかということを考える人たちが出てくる。その社会それぞれのベースでは立ってるから本物のゼロベースではない。そもそも人間てこうした方がいいとか、孔子もそう考えてるわけだし。面白いです。

樋口:面白いな。

深井:と言うことで。日本こんな感じかな。

樋口:はい、日本こんな感じですかね。

深井:東アジアとはなんだったんでしょうね。東アジアの教育とはんだったのか、よくわからないです。

樋口:よくわからない。まあまあよくわからないで終わっときましょうか。以上ですかね。ありがとうございました。

深井:ありがとうございました。

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