【今回の内容】今回はそんな我が道を行く二人のスーパースターの生涯と、 彼らが身を焦がした仏教という西洋哲学に比肩する膨大な哲学思想について迫っていきたいと思います。 勉強して痛感したのは、結局僕らは何一つ仏教を理解してなかったこと・・・。 難解で刺激的な回となっております。ぜひご視聴ください。#133 仏教2.0 ! アップデートを繰り返す釈迦の思想
樋口:はい、ええ、前回までは「最澄と空海」シリーズ導入部分のお話をお聞きいただいたんですけども、ついに今回本編突入ということでよろしくお願いします。
深井:はい。釈迦までさかのぼる羽目になった話。
楊:そうですね。
樋口:けっこう戻ったな。
深井:まじで戻った。
楊:だよね。
深井:紀元前6世紀まで戻っちゃったからね。釈迦の話をヤンヤンから。
楊:そうですね。
深井:少し簡単に。もう一回、おさらいを含めて。
楊:だよね。以前に、コテンラジオで三大宗教で釈迦と仏教について話したと思うけど。もう少し、おさらいをしないと後のことが理解できないと思う。
樋口:なるほど。
楊:軽く、軽く?になるのかな。話そうと思います。仏教、まずは「釈迦」。ゴータマ・シッダールタという人が紀元前6世紀に仏教を興したんですけれども。当時の時代背景として、実は「知の大爆発時代」というふうに言われています。
樋口:知性の知ですね。
楊:そうです。て、いわれてたんですね。例えば同じ時期の中国ではちょうど春秋時代なんですよ。バチバチ戦争とかしてて、孔子、老子とか、そういうやばい人が出てきた時代ですし。
深井:すごい時代だよね、これ。
楊:うん。あとはギリシャ。ギリシャはみなさん名前は聞いたことがあると思いますけど、ピタゴラス、ヘラクレイトスとか。そういう数学とか哲学の天才もちょうど出てきたような時代だったんですね。
その時代にガンジス川の近辺で、釈迦が出てきたんですけれど。釈迦がどういう時代背景のもと、そこで出てきたかというと、当時インドの宗教、主な宗教て「バラモン教」という宗教が中心で、簡単にいうと「輪廻転生」もバラモン教の思想ですし、あと「カースト制度」ですよね。今もインドではあるんですけど、四つの身分が生まれながらにして厳格に固定されてた。司祭、一番上の最上級の「司祭のバラモン」「王族貴族のクシャトリア」「一般市民のバイシャ」「隷属階級=一番下のシュードラ」。こういう社会構造になってたんです。
実は、この釈迦が生きてた時代は経済がすごく発展した時代だったんですよね。そのひとつの原因として、鉄の利用が普及したんですよ。鉄を農業で使うことが増えることによって農業生産力がすごく上がったんですよね。それで人口も増えたし、大量の余剰生産物が出来たわけです。余剰生産物を得ることができるってことは富が蓄積されていくわけなんです。で、その富が蓄積されたことによって何が起きたかというとブルジョワジーが誕生するんです。簡単にいうとお金持ちです。
樋口:でた。
楊:農民だったりとか商人だったりとか。そういう人がお金を持つようになるんです。お金を持つようになるとバラモンとかのようなカーストが上の人に対してちょっとものが言えるようになるんです。「おれら金を持ってるし、すごい事業も持ってるし」と、けっこう強気のカウンターエネルギーが出てくるわけです。
ただ、カースト制度によって一番上のバラモンとかがすごく押さえつけようとしてるので、この対抗関係というのが当時は存在してたわけです。
そのバラモンを頂点とするカースト制度から「じゃあ、もう私たちは抜け出すよ」と。「既存の価値体系から抜け出すよ」ということを始める人がどんどん増えて行く。これが実は「出家」という行為。元々の出家はそういう行為なんです。釈迦は前のコテンラジオでも話したけども上流階級の生まれなんです。つまり、すごく恵まれた環境にはいたんですけども、実は、生まれた国の周りって戦争が多く、戦争と日常の距離がけっこう近かったんですよね。それが、もしかして彼の精神世界というか、彼が思索に突入していったひとつの原因なのかもしれないですよね。
「釈迦のすごいところは何か?」というといろいろあるんですけど、例えばカースト制度って生まれながらにして人の身分というか、が、決まってるわけなんです。
樋口:ですね。
楊:でも釈迦は「人間は生まれではなく、自分のあり方次第で自分の幸福か不幸か決まる」って言ったんです。「人間個人に対して、個人の精神世界について語ったところがすごく革命的だった」と言われてて。
深井:面白いよね。この時代は、それまで「個人」なんていう考え方がほぼなかったのに、急に釈迦も言ったし、ギリシャの哲学者たちも急に個人にフォーカスし始めるという動きが起こった。現代と一緒ですね。
樋口:身分とか立場だったってことですね。
深井:そうです。個人で捉えるってことに思考法としてみんなが慣れてない時に、急にそういうことをし始める人が出てくるみたいな。
楊:そうそうそう。そうなんですよね。彼がいろいろと苦行をして肉体を痛めつけることによって自分の苦しみを証明させることを目指した。それが一回失敗して、方向転換して、自分の心にアプローチし始めたんです。瞑想等を通じて自分の心にアプローチして。彼の悟ったことの中でひとつは「この世は全て苦しみである。愛着、執着である」とか。
深井:めちゃくちゃネガティブだよね。
樋口:いやだな。
楊:これも前に話したと思う。あとで説明するけど「いかに苦しみを消すことによって自分を輪廻転生というひとつの生まれ変わり、死に変りのサイクルから抜け出すこと」を仏教が目指してたわけなんですけども。輪廻って生まれ変わりのことなんです。普通生まれ変わりってすごくプラスに捉えられるじゃないですか。生まれ変わったら何になりたいとか。そういうことも聞かれますけども。でも釈迦が言うにはそもそもこの生きてること自体がそもそもマイナスなんです。苦しみなんです。
樋口:ネガティブやな、楽しいけどなおれ、今。
楊:ですよね。彼は苦しかったわけです。
樋口:ですよね、はい。
楊:で、「人間は天とか畜生とか地獄とか阿修羅とか」いろいろ5つか6つの領域があって、その領域の中でずっと輪廻を繰り返していく」と彼は考えたんです。これはずっと永遠に続く。つまり「生きることが永遠に続くってことは苦しみが永遠に続くことなんだ」というふうに彼は思ってて。それが二度と生まれ変わらない世界、つまり「涅槃」に至ることが仏教が一番。
深井:ニルヴァーナ。
楊:そうそうそう、目指すところなんですよね。で、「なんで輪廻が回っていくのか」」輪廻を動かすエネルギーて何か」というと、これは「カルマ」なんだというふうに言われてるんです。そのカルマのさらにカルマを作ってるものは何なのかと彼は考えたんです。それが僕らのよく聞く「煩悩」なんです。
深井:きたきた
楊:なんとか自分自身に対する鍛錬を通じて「この煩悩をいかに消し去ることが大事」なんだと彼は考えたんです。僕ここまで勉強して面白かったのは超ロジカルだということなんだよね。
深井:めっちゃロジカル。なんかね、前も言いましたけど「三大宗教」のときも。とにかく神様とか出てこないんです。彼の話の中で。
樋口:出てこない。
深井:ただひたすらロジカルになんで自分たちが苦しいのかってのを分析していった結果「自分たちが何かに執着するからだね」って結論に至り、「その執着を消すにはどうしたらいいか」っていうことがひたすらロジカルに書かれてる。書かれてるというか彼は書いてないんだけど、言った。てことだと思っていて。
楊:「唯識論」のところでも前も言ったけど、「全てのものってつながってる」んですよ。「時間と空間をさかのぼっていけば全てがつながってるから、自分と自分じゃないものを分けるって意味ないよね」と。
深井:ていうタネを全部蒔いた。そのあと「唯識」で出てきたりとか、「空」の話で出てきたりとかする話の、その全てのタネを釈迦が一番最初に、バンっと全部蒔いて、それを後世の人が拾って、さらに理論体系つけていくということが起こる。アリストテレスみたいな人ですよ。
樋口:本当に祖というか。
深井:そう。宗教枠に入れられてるけど、僕は本当に哲学者だと思う、彼は。
樋口:その話はたしか三大宗教の時にしましたよね。仏教は哲学みたいな。なるほどなるほど。
楊:で、釈迦が死んだあと、これもちょっとさらっといきますけど。死んだあと、しばらく百年くらい経ってから教えがいろいろ分裂していく。百年くらい経つと新しい解釈が出てきたりとか、「これはもしかしたらこうじゃないか?」という、いろんなことをいう弟子たちが出てくるわけです。最初の方こそ釈迦の教えに忠実に従おうというふうな雰囲気だったんですけども、途中から仏教が一気に多様化していくんです。これが、後々の日本とか中国に伝わってきた大乗仏教のベースになっていくんですけれども。実は、宗教が多様化をしたきっかけは二つの段階があるんです、二つの段階によってブーストされてるんです。
樋口:ほうほう。
楊:ひとつはいろいろ多様化していくっていうエネルギーの流れがある。でも、これを「なんとか合理化したいと」「なんとか理由をつけて多様化に対して道筋をつけて行きたい」という考え方が出てきて。
結局、何がよかったのかというと、仏教の教団のルールを変更したんです。それまでは「釈迦と違うこと、解釈を言ってた人は破門」だったんです。「おまえ、もうコミュニティから出ろ」みたいな。ですけど「いや、もう一緒に儀式とか一緒に会議とかやってたら、解釈が違ってもいいよ」ってことになった。
樋口:ふうん。
楊:「とりあえず、みんなが集まるミーティングとか、そういうところはちゃんと出席しなさい。あとは解釈は自由でいいよ」みたいな。
樋口:多様性を明確に認めたってことですね。
楊:そうです、そうです。
深井:時のインドの王様が、認めたんだよね、確か。そうしないと、やばい争いが起こりそうだみたいな。ていう政治的な思惑もあって、ここで、一回、多様性を許諾する方向にいく、仏教が。なんで、めっちゃ宗派がたくさんできるわけ。
楊:一気に増える。
樋口:そりゃ、できるわな。
楊:で、二番目のブーストの要因が、これがまじすごくて。お経ってあるじゃないですか。お経て本来釈迦が直接話した言葉を記録した教えなんですね。
樋口:はい。そうですね。
楊:本当はそうですよね。でも後になってくると、いろんな解釈が出てきて、それをまたお経とかに落としていくんですよ。別に釈迦が直接言ったことでないこともお経になって、残って行くんです、実は。
樋口:え、でも釈迦が言ったってことになってる。
深井:なってるなってる。
樋口:なってる。
深井:お経は全部釈迦が言ったことになってる。
楊:実際は違うんですけどね。
樋口:え、めちゃくちゃやん。ゴーストライター。
深井:そう思うじゃん。ちゃんと読んでみたら、なぜそう思ったのかがちょっとずつわかっていくんだよね。だから面白かった。
楊:ロジックの積み上げでそうなってるんです。だから、そこで変更したルールてのが、「昔からのお経、釈迦が直接話したことを文字に落としたお経には書いてないけれども、論理的に正しければ釈迦の教えにしていいよね」みたいなことになったんです。これはすごいことなんです。
樋口:釈迦からしたらびっくりするかも。
楊:びっくりなんです。
深井:釈迦がびっくりする。
楊:ちゃんとロジックを積み上げれば、新しい教えとしてお経に落としてまとめて世に出せるんです。
樋口:なんじゃそりゃ。
深井:それ、だからキリスト教とイスラム教が絶対にやらないことですよね。
樋口:やらなさそう。
深井:ね。こう、クルアーン(=コーラン、イスラム教の聖典)を新しく追加しないし、新約聖書に新しく追加しないでしょ。けど、仏教ではそれができたし。彼らの論理がすごく面白くて「本当は釈迦はこう思ってたんじゃないか」と思ってる、しかも本気で。
樋口:へえ。
深井:死ぬほど論理的に考えた時、たぶん僕の想像ですけど、釈迦を超えてるんですよ、何人か。
樋口:へえ、面白い。
深井:やっぱり釈迦のベースがあるから、その釈迦のベースをうまく使って、吸収してから、やっぱり普通に考えて自然じゃないですか。もっと発展させていく方が。
樋口:アップデートしていくってこと。
深井:そう、アップデートできちゃった人たちが釈迦を超えちゃってるけど、釈迦も頭がいいからここまで考えたはずだけど、「これを当時の人に言っても伝わらなかったから、そう言ってないだけだと思う」と言ってる。
樋口:ああ、そのあと人たちがね。
深井:そうかぁ、と思って(笑)
樋口:はあ。
深井:そうかと思って。面白かったですね。
樋口:それをやっていいんだ。
楊:やっていいってことになってました。だから、後の人たちが自分たちの思想だとか自分たちの経験とかのインスピレーションを、ちょっといい感じに盛り込む。
深井:そう。ばんばん載せていけるようになった、仏教は。
楊:載せていくようになる。
深井:だから経典が本当にたくさんあるんですよ、仏教には。なんとか経、なんとか経って大量にあるでしょ。
楊:何千冊、何万冊とかある。キリスト教とかね、イスラム教とか全然違う。
深井:一神教のイスラム教、エイブラハム宗教系は基本的には聖書とあれしかないですから。
楊:ぶちぎれる。
深井:そう、向こうからしたらね。多様性の宗教だよね、そこでいったらね。
樋口:そうかそうか。確かにいっぱいあってなにが違うかよくわからないなと子供心に思ってました。なんたら宗、なんたら宗とかって。
深井:みんな、それぞれのインスピレーションをお経にしていって、「これが本当に釈迦が考えたことだ」っていって出してる。
樋口:インスパイア系がいっぱいあるんですね。
深井:インスパイアードです。インスパイアードバイ釈迦。
楊:お互いに教えが違ってもそんなにけんかしないもんね。ということも。
深井:ベースが一緒なんですよね。そこはすごく強いと思ってて。
樋口:なるほど。
深井:前回僕は今回のシリーズがめちゃくちゃむずいって話しまくった。なにがむずいって違いがよくわからないわけ。
樋口:はあ、まず
深井:このお経とこのお経が言ってることは何が本質的に違うんだってことがとってもわかりずらいわけです。ちゃんと書いてありますよ、本に、一応ね。書いてあるんだけど、上っ面はわかるよ。書いてあることの理解はできるけど、なんで人生をかけてまでそこを追求するほどの違いなのかが全然分からないわけです。それぞれが。絶対あるはずなんですけど。
楊:確かにね。
深井:それが分かんないってことも特徴だなと思ったね。
樋口:なるほど。
楊:たぶんお二人とも音楽をすごく詳しいじゃないですか。ギターもすごく弾いたりするじゃないですか。でも素人の僕から見て、このギターとこのギターの違い全然わかんないみたいな感じ。
深井:本当にそんな感じ。
楊:全然、解像度が違う
深井:本当に音楽を聞きまくってる人は、「これがテレキャスター」とか「ああ、これテレキャスターで出す音だね」みたいな感じのとか、「ピックアップどうなってる」みたいなことを極めた人たちどうしで感じあって、発展させていった結果だれにも分からないものができていってる。
樋口:そうかそうか。解像度が上がっていってるいたいなイメージなのかな。
楊:そうです。
深井:逆に、発展度合いでいったらすげえなと思いましたよ。
楊:すごいすごい。これって、完全に僕は学術的な解釈とかじゃないんですけど、イエスとムハンマドと釈迦で比べた時に、すげえ面白かったんです。イエスとムハンマドがスタート地点とする、彼らが興した一神教なんですけども、強烈じゃないですか。すごい、爆発的なエネルギーを一点集中突破!みたいな。そういった感じの宗教なんですけども。イエスとか死に方とか考えたらそうなるなって思ってて。なんとなく、僕の中では納得感があって。イエスの死に方って本当にむちで皮剥がされて、関節をはがされて磔にされるじゃないですか。すごい、なんだろう、トラウマとは言わないまでも、彼が強烈な形で死んだことによって、それがひとつイエス、キリスト教の性格を位置付けたってのを感じる。
樋口:なるほどな。
楊:逆に釈迦ってけっこう長生きして、最後なにで死んだと思います?
樋口:なんだったですか。
楊:おなかを壊して死んだ。
樋口:そうだったんですか。
深井:めっちゃ腹が痛くなって。死ぬほど痛かったけど、瞑想で克服する。
樋口:なにそれ。
深井:でも亡くなりますけどね、結局それで。
楊:この二人の教祖の死に方を見た時に人に与える印象、その時の人々に与える印象を想像した時、に宗教の性格も違ってくるのかなとなんとなく思う。
深井:まあ、僕が純粋に思うのは、釈迦の方が圧倒的にロジカルだから何言ってるかわかる。イエスよりも圧倒的にロジカルなんで。何を言ってるかはわかりやすいです。
樋口:なるほどね。
楊:なんとなくだけど、イエスは確か死んだ時に30歳くらいだったかな。
深井:まだ若かった。
楊:磔にされたとき。
樋口:若い。
楊:若い時に言ったことと、釈迦のように長生きした人が言うことって変わってくるじゃないですか。普通の人も。それももしかしたら関係あるかなと思って。若さに任せてばんといっちゃうのがもしかしてイエスだったかもしれない
深井:どうなんだろうね
楊:どうなんだろうね
深井:いまやわかりませんけどね
樋口:なるほど
深井:そういうところから、今、「部派仏教」の話までしたよね。仏教が分かれてきたっていう。で、その今さっきヤンヤンが言ったみたいに仏教の解釈が分かれてそれぞれそのままでいいよってなって話したんですけど。五百年間くらいはそれでも釈迦が言った言葉を相当忠実に守ってる状態があって、その間に釈迦ってすごく神格化をされていって、神様扱いをされて、偶像化もされていってみたいな、いわゆる宗教化していってみたいなことが起こっていくんですけど。紀元2世紀ころにでかい動きがあるというか、また天才が生まれる。それ「ナーガールジュナ」という人が南インドに生まれるわけですよ。
樋口:ほおほお
深井:この人が、端的に言うとこの人が作ったが「大乗仏教」。
樋口:へえ
楊:それまでの大乗に向かう、この仏教の多様性の流れを一気に体系化した人
深井:そうそうそう。で、「上座部仏教」と「大乗仏教」に分かれる、大きくね。何が違うかっていったら、「上座部」とは「自分が修行して、自分がその修行の中で悟りを開いていく」という考え方ですね。「大乗仏教」とは「人に悟りを開かすにはどうするのか」ってのをちゃんと考えた。
樋口:そういうことなのか、へえ。
深井:で、その「上座部仏教」てのは、やっぱり釈迦ってすごい人だから、自分が仏陀ですよね、「悟りを開いた人=仏陀」になるのはできないと思ってるわけです、みんな。けど、その仏陀よりは、だいぶ低いんだけど、一応、悟りを開いた人として「阿羅漢」て呼ばれてるものがあって。これも名詞なんで、そのまま覚えてほしいんですけど。「阿羅漢」にはなれると思ってるわけです。それは「仏陀よりはランクは低いんだけど、悟りを開いた人」って意味。
「大乗仏教」は仏陀になれると思ってる。「自分も人に悟りを開かせることができる人」だ。これが、仏陀と阿羅漢の違いね、大きく分けるとすると何か、といったら、「仏陀は人を悟らせることができる人」「阿羅漢は自分が悟った人」なんです。仏陀になることはすごく難しいこと。
樋口:難しい方。
深井:難しいし、そもそも仏陀がいるから阿羅漢で止まってて、なんの問題もなかったわけです。けど、これ僕、真言宗の僧侶に伺って非常に面白かったんですけど。いろんな本にいろんな説明してあることなんですが、僕が一番納得したのは、その僧侶の説明だった。
何かというと、仏陀が言ったこととか、仏陀が作った戒律って当時のインドの風土に適したことなんだよね。だから細かく決まってるわけです。こういうなんていうか、裸に布をこういう風に着なさいとか。
樋口:そいういうことか。
深井:で、「托鉢をして生きて行きなさい」とかそういうことが書いてある。詳しくはないですけど、僕も。それが、仏教が北に北に広がっていくにあたって、風土も変わるし社会状況も違うので適応できなくなってくるわけです。そうすると「仏陀が言ってることで悟れない」という状況が発生してしまう。「仏陀が言ってることをそのまま守ってても、トラブルばっかり起こるぞ」みたいな。「彼が想定していたことにならないぞ」っていうことになった時に、仏陀が言ってることと、違うことをカスタマイズして適応していく。
楊:そうそう。
樋口:ローカライズだったり年代に合わせたりね、なるほど。
深井:「仏陀が言ってることと、違うことを言ってるのに悟りに行けるってことは、いわゆる自分も仏陀なんだっていう発想があるんじゃないか」「そこから大乗仏教が出てきてるんじゃないか」っていうひとつの指摘があって。それはとても面白いなと。
樋口:すげえ。生の声。
深井:ですよね、そうやって僕も思いました。僕はナーガールジュナが「自分ばっかり修行して自分が悟るってのは、それはいいんだけど、しょぼい」と。「もっと苦しんでる人がたくさんいるんだから、この人たちを救えるような人間になる。それがとても大切なんだ」といったことも非常にすごい転換点だよね。
樋口:なるほどなるほど。
楊:大乗のこの広がりがあった時もさっき深井くんがいったように、社会状況のニーズもあるし、その実際にその時にガンジス川、インドあたりでは戦乱の時代とかに突入していくという社会状況もあったんです。
樋口:そうか。
深井:そう。
楊:そういった状況の中で「出家をする」とか難しい経典を紐解く余裕はないんですよね。「出家をする」ってことは自分で生産活動しちゃいけないので、托鉢して社会から頂きをもらいながら、ものをもらいながら生きていくってことですが、社会がそもそも混乱しているし、みんな、もう宗教を信じるというか救いを求めたい人って、明日の食い扶持を稼ぐのでいっぱいいっぱいだから余裕がないですよね。
樋口:そうなる、そうなる。
楊:そういうリアルな社会状況があったと思います。
深井:そうだよね。そういう社会ニーズに合わせて宗教側も変わっていくってことです。同じ真理を持ってるんだけど、考えてるんだけど、伝え方とか喋り方とか普通に変わっていったりとか。捉え方も変わっていくってことがおこっていって。そこでひとつの大きい転換点である大乗仏教てのが生まれていくわけですね。このナーガールジュナの流れから。これも、もっと詳しくいうと半端なくこれだけで50回くらいできちゃうくらいの内容。本当にやばかった。「中観」とか言って。何言ってるんだって感じの。「空の思想」もここから出てきてるんだけど。
ちょっとざっくり言うと、「ナーガールジュナがもうひとつ中観」ていう発想があって。「小乗仏教」ていうのは蔑称なんで、「上座部仏教」のことですね。「上座部仏教」ようは「自分が修行して自分が悟ることを目指してる宗教」今でも東南アジアとかはこれです。この人たちがやってる「上座部仏教」ていうのは「悟りを目指してることも執着だ」って話をする。
樋口:ちょっと難しい、なるほど。
深井:「執着を捨てようとして悟ろうとする。その悟ろうとするのも執着だろう」みたいな。
樋口:そうですね。一個メタ視点でみるとそうなる。
楊:そう、自我意識がそこにそもそも存在してるからだめだよね。
樋口:言われればそうですね。
深井:そこをもっとでっかい視点で見た時にそういう気分、「本当に中立というか世界と調和してる状態てのの精神状態とはなにか」「本当の自我とは何か」というのをひたすら考えつづけてるわけです、ロジックでですよ。
樋口:はいはい。
深井:そのロジックも半端ないロジックなんです。ここで紹介できないレベルの。「歩いている人は歩いてな」いとかいうすげえわけわからないことを、死ぬほど訳わかんないことを言い始めたりするようなことをずっと言いながらやってて。それでそういう発想が出てくる訳です。
樋口:はいはい。
深井:ちょっと本当ざっくりの紹介しかできなかったけど。そういうことを言い始めて社会状況の要請によって「大乗仏教」が出てきて。ここで始めて「菩薩」ていう概念がでてきますね。
樋口:菩薩だ。
深井:「菩薩」ってのは悟れる能力を持ってるんだけども、悟らずにみんなを救う人なんですよ。
樋口:へえ。
深井:ようは「大乗仏教」からみるとかっこいい人ですよね。こういう人が出てきて。今でも「菩薩の像」とかたくさんあるじゃないですか。日本にも。
楊:「菩薩」が生まれるという概念が生まれるというのもすげえめっちゃ精密なロジックがある。
深井:そうなんですよ。
樋口:ロジックなんやな。
楊:そうそうロジックなんです。
深井:全部ロジックだよ。本当にすごかった。これもね。
楊:ちょっと話してみようか。
深井:トライしてみる?
次回につづく…